「飯炊き三年」の例え-弁護士は職人か?-
1 寿司職人の修行について、「飯炊き三年、握り八年」とか「飯炊き三年、合わせ五年、握り一生」などと言われますが、いずれも、一人前の寿司職人になるには長期間の修行が必要であることの例えとされています。
他方、最近では、詳細なマニュアルに基づいた指導、育成により、わずか3か月程度で、客の前で寿司を握ることができる職人を養成している店やそういう方法で養成された職人を採用している店があり、繁盛しているという話も耳にします。
とある日の夕刻、私は、仕事が一段落ついたことから、缶ビール片手に、事務所に残っていた事務員のGさんと雑談に興じていました。
その中で、私が、先ほどのマニュアルによる寿司職人養成の話をしたところ、Gさんは、即座に「3か月でいい寿司職人にはなれません。そんな店の味は落ちます。私はそんな店には行きません。」と言いました。
Gさんは、老人の域に達している私と同年代のベテラン事務員ですが、事務所の先生方とおいしい料理店を食べ歩いたことのある人で、Gさんの発言は、そのような経験に基づいているものと思われました。
ただ、私は、「飯炊き三年」の修行には、無駄な修行や師匠である親方、大将などによるいじめやパワハラがあるのではないかと考えており、マニュアルによる寿司職人養成も合理的ではないかとの思いがあったので、Gさんの発言には全面的に賛同できませんでした。
2 そのようなことがあって間がない時期、確か新聞記事だったと思いますが、偶然、「飯炊き三年」の話を目にしました。
内容は、「飯炊き三年」の修行は、ただ単に寿司を握る技術を身に付けるだけでなく、師匠の寿司に対する考えや姿勢、店における師匠の立ち居振る舞いや客との会話など客との接し方、師匠の人柄に至るまで、ありとあらゆることを身に付ける修行であり、長時間を要するのは当たり前であるというものです。
私は、この話を目にし、よい師匠につくことが条件になるとは思いますが、「飯炊き三年」の修行は合理的なものであると認識し、Gさんの意見にも一理あると思った次第です。
3 「人新世の『資本論』」の著者で、マルクス研究者、哲学者の斎藤幸平東京大学准教授は、近著の中で、マルクスの「資本論」に出てくる「構想」と「実行」について述べています。
その概要を職人に当てはめていうと、職人が物を製作する場合、まずは、完成品の品質、性能、使い勝手、デザイン、原材料、製作過程等々について考え、その考えに基づいて作業を行って完成品を製作しますが、前段の「考え」の部分が「構想」であり、後段の「作業」の部分が「実行」であって、職人は、「構想」と「実行」の両方を行うので、自身の仕事に誇りとやり甲斐をもつことができるというものです。
この「構想」と「実行」の話は、近代の労働者は、「構想」の部分が仕事から切り離され、「実行」の部分も分業により単純作業になり、その結果、仕事に対する誇りややり甲斐を喪失し・・・と続くのですが、その部分は割愛します。
寿司職人も職人であり、「構想」と「実行」の両方を行うのであって、「構想」の部分がより深く、より豊かであるほどいい寿司職人と言えるのではないでしょうか。
そして、より深く、より豊かな構想を身に付けるには、修行に長時間を要するのは当然と言えるのではないでしょうか。
この点からも、「飯炊き三年」の修行の合理性は裏付けられるのではないかと思います。
4 私は、以前、先輩の弁護士から、「弁護士は職人だ。」という言葉を聞き、内心、「職人じゃなく、法律家だろう。誇りをもてよ。」と思ったことがありました。
しかし、今話した「飯炊き三年」の修行の話を前提とすると、弁護士も職人であり、「構想」と「実行」をもった職人であると考えます。
そして、いい弁護士であるためには、深く、豊かな「構想」を身に付ける必要があると思っています。
私は、検事から弁護士に転身して未だ8年程度ですので、「飯炊き三年」の例えからすれば、まだまだ修行中ということになるかと思います。
修行を続け、いい弁護士になった暁には、東京銀座の歌舞伎座界隈のいい大将がいる寿司屋でおいしい寿司を堪能できたらと思います。
以上
*参考文献
斎藤幸平著 「ゼロからの『資本論』」 NHK出版新書