スポーツビジネスについて
かなり前のことですが、アメリカのスポーツビジネスについて、二弁の升本喜郎弁護士が書いた「ショウ・ミー・ザ・マネー アメリカのスポーツエージェントを巡る法的諸問題」という本を読んだ時に思いついたことを、紹介させていただきます。
スポーツビジネスの主役たち
アメリカにおけるスポーツビジネスの歴史は古い。最初にプロ野球チームが結成されたのは1869年にシンシナティ・レッドストッキングスで、1876年にはナショナルリーグが、1899年にはアメリカンリーグがそれぞれ結成されている。その他のスポーツビジネスであるNHL、NFL、NBLもそれぞれ輝かしい伝統をもっている。アメリカ資本主義の発達と軌を一にしてスポーツビジネスも発展してきたといえる。
スポーツエージェントの発生は1970年頃におけるアメリカ4大スポーツビジネスにおける選手の地位の飛躍的な向上と軌を一にしている。著者は当時選手の地位を向上させた理由として、①選手契約における保留条項・オプション条項の撤廃に向けて選手が訴訟を起こし、勝訴判決を得た、②競合リーグの出現、③選手組合の結成と労使交渉の実現、④メディアの発展によるビジネスチャンスの増大、をあげている。
ここで注目すべきことは、当時勇気ある選手が個人で、または選手組合の支援を受けて球団またはコミッショナーに対して訴訟を挑んで勝利判決を得たこと、さらに選手組合を結成してストライキも実行して球団およびコミッショナーと交渉して種々の協約を勝ち取ったことである。それが今日における選手の権利の飛躍的向上とスポーツエージェントの活躍の場を作ったといえるであろう。
著者はNFLにおけるロズェル・ルールに対してシャーマン法違反を理由として訴訟を提起したジョー・カップ対NFLの訴訟(1974年カップシャーマン法違反では勝訴)、ロズェル・ルールがシャーマン法違反であることを決定付けたマッキー対NFLクラス・アクション訴訟(この訴訟の結果いわゆるフリーエージェント制が生み出される)をはじめ、NBA、NHL、そしてMLBにおいても保留条項に関するシャーマン法違反訴訟では「ベースボール適用除外の法理」によって選手が敗訴したものの、1975年にアンディ・メッサースミスとディブ・マクナリーが提起した苦情仲裁手続きにおいて両投手をフリーエージェントと認めたいわゆるピーター・サイツ裁定を引き出し、MBLにおいてフリーエージェント制の道を切り開いたことは特筆に価する。
またマービン・ミラーがMLPBAの委員長に就任し、1970年労働協約により苦情仲裁に関してコミッショナーが仲裁人となる従来の制度を変更して中立公平な3人の仲裁人の合議体による手続きによることに成功し、前記ピーター・サイツ裁定を引き出すきっかけとなったことも忘れてはならないことである。
著者はこの歴史の転換点にあたり裁判記録を丹念に検証してドラスティックな経過を記述しており、その正確さと事実が生み出す迫力に圧倒される。まさにアメリカ資本主義の真骨頂が舞っているような雰囲気である。
アスリート
私は約20年間にわたって労働側からの弁護士をしてきたこともあって、かねてからスポーツ選手が球団やオーナーと種々の契約をすることについて大変興味と関心を有していた。というのは、個々の選手が球団やチームの主催者と契約金や参加報酬をはじめとする契約条件を定める点では労使関係と類似性があり、また選手が選手会等の労働組合を結成して集団で球団やリーグと団体交渉を行って有利な労働条件を獲得していく手法は、まさに労働運動と同一だからである。
私が労働組合との違いを感じたのは、労働組合の場合には労使関係ですべてが決められてしまい、個人が関与する場面はほとんどないことである。それに比してスポーツ選手の場合、集団的関係の大きな枠組みはリーグと選手会等で定められているが、具体的な妥当性はあくまで球団と選手との間で決められる。そこで自己主張できない選手は一流のアスリートとしての評価を受けることはできない。一流の証明とは、決してグランドだけにあるのではなく、そのことを契約内容においてもきっちり反映させることができてはじめて一流の評価を受けることができる。グランド上でどれほどいいプレイをしていてもそれだけでは極端にいえば評価はゼロである。どんなにすばらしいプレイであっても、それが誰も見ることができない場でなされているならば、それは意味がない。単なる自己満足にすぎない。それを観客に見せ、観客を満足させるシステム、すなわちスポーツビジネスがあって、はじめて彼を一流のアスリートにするのだ。たとえば、誰か一人(1チーム)だけが絶対に勝つスポーツはビジネスとして成り立たないし、スポーツとしても成り立たない。彼に支払われるギャラの額は彼のプレイがどれほど多くの人に満足感を与えているかの指標である。そのスポーツに関する売上の額が、そのスポーツがどれほど人々に共感と満足を与えているかの指標である。だから売上やギャラに上限はない。
スポーツビジネスは社会契約説の実現である
スポーツビジネスは実業の世界ではない。いわば虚業(フィクション)の世界、アイデア(=観念)の世界である。スポーツ自体アイデアとルールの産物だし、ましてやスポーツビジネスは創造性と約束事だけで作られている。このアイデアすなわち遊びの世界における創造性と約束事、これが現代の世界を生き抜いていく上でどれほど重要であるかを再認識しなければならないと思う。
資本主義の要諦を一言で言いあらわす言葉に「時は金なり」があるが、「遊びは金なり」というのも他人を満足させるという資本主義を貫く「隣人愛」の実現という点で同じくらいの意味を有している。ジョン・ロックは、国家は人々による契約によって成立するという社会契約説を説いたが、スポーツおよびスポーツビジネスはその縮図だ。たとえばプロ野球の場合、野球協約は憲法のようなものである。これがなければスポーツビジネスという土俵は成立しない。オーナーは協約を締結することでリーグを結成してお互いに市民権を獲得し、選手は統一契約書に署名することによってはじめてスポーツビジネス社会におけるプレイ権を獲得する。この社会においては参入・退出はもちろんのこと、スポーツ世界における行動・待遇もすべて契約で定められ、律せられている。その意味では最も高度の契約社会である。この高度の契約社会においてオーナーはもちろん1選手がどのような振る舞いをするかはプレイと同様に、問題によってはプレイ以上に注目されている。
なお、アメリカにおけるスポーツビジネスはいずれも伝統の上に築かれているが、ビジネスとしてはNFLが最も制度として完成しているように思われる。
スポーツビジネスはメディアにおける最大のコンテンツである。
メディアの発達はスポーツ観戦の時間的・空間的な限界を取り払い、誰もがいつでもどこからでも観戦できるようにした。このことの革命的な意義は計り知れない。では、単に時間的・空間的な限界を取り払っただけであろうか。
スポーツビジネスの発達は、スポーツ観戦を単なる見世物から民主主義の貫徹という「政治的課題」へと押し上げた。たとえばタイガー・ウッズの登場である。本来ゴルフは白人が行う、白人のための最後のスポーツであった。マスターズで黒人がプレイをするということが考えられたであろうか。ましてや黒人がぶっちぎりで白人を押しのけて優勝するなどということが考えられたであろうか。タイガーの出現によってそのような先入観は完膚なきまでに叩き潰された。私は、タイガーを生み出し、またその活躍を受容するアメリカ社会の奥深さに戦慄を覚えるほどである。
翻って考えてみれば、野球、フットボール、バスケットボール等他のスポーツについてもいえることである。初めは全て白人だけの、白人だけが楽しむためであったものが徐々に黒人やヒスパニックをはじめとするマイノリティが参入し、いまやアメリカの国民的なスポーツとしての地位を持ちつつ彼らがプレイヤーとしての根幹を支えている。それはアメリカ社会が人種、信条、性別、社会的身分によって左右されないことの証明であり、かつ不断に民主主義社会であることを世界にアピールしている。
では、スポーツビジネスについてはどうであろうか。アメリカのスポーツビジネスにおいてオーナーやコミッショナー等のスポーツ団体の中枢にマイノリティがいることを聞いたことはない。マイケル・ジョーダンはNBAのオーナーになりうるであろうか。推測であるが、多分大部分は白人であろう。マイケル・ジョーダンやタイガー・ウッズの活躍はそれ自体に意味があるのではなく、NBAやPGAというスポーツビジネスの中でプレイをしてはじめて意味を持つのである。たとえばタイガーが一人でプレイをしたからといっても誰も関心は示さない。スポンサー企業が賞金を提供し、PGAが主催する試合でアーニー・エルス、ミケルソン、ラブⅢらと競う中ではじめて輝きを得るのである。メディアによってはじめて世界が彼に集中するのである。スポーツとスポーツビジネスの関係は鶏と卵の関係であり、どちらが先でどちらが後でもなく、どちらが欠けても存在できない。
しかし、スポーツ団体やスポーツビジネスの中枢に黒人やマイノリティが少ないことは、アメリカスポーツビジネスの意義をいささかも減じるものではないものの、その限界を表しているのかもしれない。
スポーツビジネス研究と実践の必要性
日本は今大きな壁にぶつかっていると言われている。単一民族であることや島国であることからの制約によるものであろうか。アメリカ社会のようなダイナミズムや自由な創造性に欠けていることが、最大の問題ではないのであろうか。これからの国際社会に伍していくためには、単にものづくりや経済だけではなく、国民の誰からも支持される強いスポーツビジネスを発展させ、社会の隅々にまで日本人のエートスに遊びや娯楽の精神を取り入れていく必要性があるであろう。
以上
問い合わせるにはこちら