弁護士コラムバックナンバー

いわゆる「霊視(霊感)商法」について

渡邉 清

1 昨年の安倍元総理銃撃事件を機として、過去にも取り上げられたことがある旧統一協会の問題が再燃しましたが、旧統一協会は、過去、信者らに対し、壺や書籍などを法外な価格で買わせ、活動資金としていたことが、霊視商法として問題視されました。

 私は、旧統一協会の霊視商法の問題がまだくすぶっていた時期、とある地方検察庁-仮にA地検としておきます。-で、捜査、公判という実務を担当する検事のトップである三席検事を勤めており、霊視商法を詐欺罪で起訴したということがありました。

 霊視商法を行っていたのは、仏教系の小さなカルト団体であり、大日如来の化身を名乗る教祖の下、眷属などと呼ばれていた数十人の信者がいました。

 そして、教祖が実質的経営者である漢方薬局において、病気等に悩んで訪れる客に対し、客が訴える病気の患部に手をかざすなどの霊視と呼ばれる行為をした上、「病気の原因は取り憑いている霊であり、霊を取り除かなければ病気は治らない。」などと申し向け、除霊のためと称して「釜焚き」と呼んでいた加持祈祷を行い、その対価として法外な金を取っていました。

 被害者の中には、数百万円を取られた人もいました。

2 この霊視商法については、A地検管内の警察署-仮にA署としておきます。-に多数の被害相談があり、私は、A署の担当者から、詐欺事件として起訴してもらえないかという相談を受けました。

 ただ、霊というあるともないとも証明がつかないようなものが絡んでおり、信教の自由の問題もあって、詐欺罪で起訴することは容易ではないと考えました。

 私が、当時のA地検検事正に最初に報告したときには、検事正から、「君、霊視商法など詐欺罪に問えると思っているのかね。」と冷たい一言を浴びました。

 しかし、看過できない悪質事案でA署が熱心であったことから、何とか詐欺罪で起訴できないかと考え、被害相談のあった多くの事案を検討したところ、不妊に悩んで漢方薬局を訪れた女性に対し、「不妊の原因は水子の霊が取り憑いていることだ。水子の霊を取り除けば必ず妊娠できる。」などと申し向け、釜焚きを行って多額の金を取った事案がありました。

 この事案については、後で被害者が産科で医師の検診を受け、不妊の原因が卵管の詰まりであり、その詰まりを取り除く治療を受ければ十分に妊娠できるということが判明しておりました。

 このような事案であれば、病気の原因は霊ではないと言えるし、いくら釜焚きをやっても卵管が詰まったままでは不妊は治らないということも言えますので、釜焚きで金を取る行為を詐欺罪に問えると判断しました。

 そして、数多あった被害相談事案の中から同様の事案をピックアップし、関わっていた教祖らを詐欺罪で逮捕、起訴しました。

 起訴した事案だけで被害総額は約5000万円に上っており、起訴しなかった事案も含めると被害総額は優に1億円を超える事案でした。

 教祖は、公判で詐欺罪の事実を否認しましたが、裁判所は、詐欺罪に該当する旨の我々の主張を全面的に認め、懲役7年の求刑に対して懲役6年6か月の有罪判決を言い渡しました。

3 この霊視商法詐欺事件については、捜査の過程で大変興味深い話も聞くことができました。

 病気と霊視、加持祈祷の関係について説明を受けた医師からは、「ありがちな病気であれば、その原因や治療方法は医学的に明らかになっており、霊が病気の原因であったり、加持祈祷を受けて病気が治癒することはあり得ません。ただ、ストレスによる胃痛のような心因性の病気であれば、加持祈祷によって、患者が安心感を抱くなどすれば、ストレスが解消され、病気が治癒したり、症状が軽減することはあります。また、心因性の病気であれば、霊が取り憑いているなどと言って患者の不安を煽れば、ストレスが増して症状が悪化し、その後で加持祈祷を行えば、悪化した症状が元に戻ることがありますが、元に戻っただけなのに、患者はあたかも病気が治癒したかのように感じることがあります。」という話聞きました。

 また、地域の大きなお寺の住職から、加持祈祷について話を聞きましたが、住職は、「病気治癒を祈願して加持祈祷を行うことはありますが、加持祈祷に病気治癒効果があるものではありません。私は、檀家から、病気の相談を受けたときは、医者に行きなさいと言ってます。入学試験に合格したい受験生は、勉強することが第一で、神仏に頼るのはそのあとということです。私は、加持祈祷は、病気治癒や商売繁盛といった個人的、世俗的なご利益を目的として行うものではなく、社会の安寧や世界の平和など公共的で大きなご利益を目的として行うものであると考えています。」という話してくれました。

4 ここからは私見になりますが、宗教では、神が登場し、神が起こしたとされる様々な奇跡、宗教が基盤とする社会の生い立ちや歴史が物語として語られるので、人々は、宗教が社会の上にあって社会を包摂するものと考えがちではないかと思います。

 神と称することができるような何らかの実体や奇跡の存在を直ちに否定するつもりはありませんが、宗教自体は、明らかに人間が作ったものであり、その存在意義、目的は、広く人々に社会における正しい生き方を教えたり、貧困、病気、人間関係の問題等々で苦しんでいる人々を精神的、物質的に救済することにあるものと思います。

 とすれば、宗教は、社会において重要なものであると言うことができても、社会の中の存在であり、社会の中の人々の様々な営みの一つであると言えます。

 宗教が社会を包摂しているのではなく、社会が宗教を包摂しているのです。

 従って、宗教といえども、社会において、民主主義のもとで合理的に定められたルールに従うべきは当然であり、その範囲において信教の自由が認められるのです。

 宗教団体や信者が、宗教行為に名を借りてかかるルールに違反する行いをした場合、犯罪や民法上の不法行為となり、法的責任を問われることがあるのは当然であり、信教の自由の名の下に法的責任を免れると考えるのは、考え違いと言うべきです。

 宗教団体、特にカルトと称されている団体には、違法行為を行っているものも相当数あるようで、違法行為を行うからカルトと称されているとも言えます。

 かかる違法行為に厳しい法的対処を取ることは、決して宗教弾圧などではなく、宗教の健全な発展や、信教の自由の真の保障に資するものであると考えます。

以上

本コラム中の意見や推測にわたる部分は、執筆者の個人的見解であり、ひかり総合法律事務所を代表しての見解ではありません。
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