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欲と執着、そして自由について

渡邉 清

 以前、このコラムで、キリスト教の教えをもとにして「天職」について書かせて頂きましたが、今回は、仏教の教えをもとにした拙文を書かせて頂きたいと思います。

 私の郷里である広島県呉市でお菓子屋さんを経営するとともに、禅宗の一派である臨済宗の僧職の資格をもつ方がおり、親しくお付き合いをさせてもらっています。このコラムでは、その方と酒を酌み交したときなどに、禅問答とまではいきませんが、それらしい会話をした際、その方からお聞きした話2題をご紹介させて頂きます。

その1 欲と執着について

 欲と執着については、とある国語辞典によれば、前者は、(程度をこえて)ほしがる心、後者は、強く心がひかれて、はなれられないこととされています(三省堂国語辞典広島東洋カープ仕様)。

 しかしながら、禅の教えでは、欲は、生きるために必要なものを欲することであり、否定されるものではありません。欲がなければ、人は生きていくことができないので、欲は、人にとって必要なものとして否定されないのです。食欲を考えて頂ければ、そのことは理解できると思われます。他方、執着は、生きるために必要ではないものまで欲することであり、これは否定されるとのことです。既に巨万の富を得ていながら、更に富を欲する人や、組織やグループにおいて、既に権力をもっていながら、やみくもにそれを強大にすることしか念頭にない人のことなどを考えて頂ければ、執着の教えが理解できると思われます。

 私は、これから人生の終末が日々迫ってくるという歳なので、欲と執着の教えは、正にストンという感じで腑に落ちました。あるとき、某週刊誌の編集者から、週刊誌の特集に掲載するので、「100歳人生だから叶えたい、死ぬまでにやっておきたいこと」というテーマで極々短い文を書いてくれと頼まれ、「人生でやり残したことはない。これまで濃い人生を送ってきたから、今後は、淡々と生きて、多少なりとも周囲から感謝されれば大満足。むしろ執着にとらわれた余生は避けたい。」という編集者の要求からは多少はずれた一文を送りました。

 とはいうものの、これから、社会において活躍し、功成り名遂げようという志をもって生きている若者には、執着も必要なのかなと思ったりもします。

その2 自由について

 自由は、我々法律家にとって重要な概念の一つであり、多くの先生方が定義を示されていますが、一般的には、他者や社会に迷惑や危害を及ぼさない限り、自らの意思に従って考え、行動できることであると理解されているかと思います。

 しかしながら、禅の教えでは、自由とは、人が、朝起きてから夜寝るまでの間に多数あるやるべきことを、自らの意思で、日々継続してきちんとできる状態にあることが自由であるとのことです。例えば、多くの人は、朝起きてまずは顔を洗うと思われますが、寒い冬の朝など、それが億劫になり、嫌々ながら形だけの顔を濡らす程度の洗顔をしたり、場合によっては、顔を洗わないまま出かけたりといったこともあるかもしれません。禅の教えでは、それは不自由だということになります。ことに仕事では、嫌々感、誰かにやらされている感等々の負の感情を抱きつつ、やむなく仕事をやっているという不自由な方々も多くいるものと推察されます。

 かくいう私も、我が身を振り返ってみたとき、嫌々感等負の感情を抱きつつやっている日々の活動がいかに多いかに気付かされたものです。そして、それが克服できれば、正に自由を感じ、日々の生活が楽になるのではないかと思いました。そのための試みとして、やるべきことが目の前にくれば、余計なことを考えずにまずは体を動かすなどと考え実践してみましたが、そううまくいくものでもありません。ただ、気持ちの上だけでも嫌々感、誰かにやらされている感等を抱かないよう心がけています。禅の教えでは、このような嫌々感等を抱くことがないよう、心を鍛える手段が、座禅による修行となるようです。

 少なくとも、物質的には豊かになり、自由の概念が大事にされていると思われる現代において、自由と言ったときに人々が思い浮かべるのは、思う存分趣味を楽しみ、旅行ができ、おいしいものを食べ、住みたい場所に住み、生活に不安がない状態などを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、そのような状態になくとも、自由はあるのだということを一考されてはいかがかと思います。

以上

本コラム中の意見や推測にわたる部分は、執筆者の個人的見解であり、ひかり総合法律事務所を代表しての見解ではありません。
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