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アメリカにおける死刑の執行と聖職者の宗教行為

中川 武隆

1 アメリカでは、死刑が執行される場合、薬剤注射による方法が一般的である。

 さらに、その執行時には、被害者の遺族らがガラス窓越しに執行の様子を見守ることが行われている。その意味では、日本と比べて、オープンである。

2 また、古くから、聖職者が、死刑を執行される者に付き添うことが行われてきたようであり、薬剤注射による執行でも、刑務所付きの聖職者(チャプレン。日本で言えば、教誨師に相当する)が死刑の執行に立ち会ってきたようである。

 しかし、希望がある多くの宗教のチャプレンを全て揃えておくことが困難ということで、チャプレンの立ち合いを一律に禁じる事態が生じた。

 これに対しては、2021年までに、連邦最高裁が、死刑執行室に聖職者の在室が許可されない限り(本人が希望することが前提となるが)、死刑執行を進めることは許されないとの判断を示した。

3 次に、問題となったのは、聖職者は、執行室内で、何らかの宗教行為をすることが許されるか、である。

 2022年3月、連邦最高裁は、この点に関する判決を言い渡した。Ramirez判決(Ramirez v. Collier, 142 S. Ct 1264(2022))である。

 Ramirezは、強盗殺人罪により、テキサス州で、死刑判決を受けた。

 これに対し、あの手この手で争ったが、それが変更されることはなかった。

 そこで、彼に対して、死刑執行日が通知されたが、土壇場で執行停止を求めるなどして争い、一回目も二回目も、執行までに至らなかった。

 三回目の執行日が、本人に通知されたのは、7ヶ月前のことであった。

 彼は、自己が所属するバプテスト教会の牧師の立ち合いを要求し、これが認められたので、さらに、その牧師が、死刑執行中に、彼の身体に手を置き(「按手」の一種であろう)、そして、声を出した祈り(黙祷ではない)を捧げることを許可するよう求めた。

 テキサス州がこれを拒否したため、彼は、連邦法を根拠に死刑執行の仮差し止め命令等を求めて、連邦の裁判所に提訴した。

 地裁、控訴裁は、それらを認めなかったが、連邦最高裁は、彼の死刑執行を停止の上、原審の判断を破棄し、差し戻した。

4 連邦最高裁の理由は、次のとおりであった。

 根拠となる法律は、信教の自由を保障する合衆国憲法修正1条を具体化した、2000年宗教的土地使用及び被収容者(の宗教活動を保護する)法である。

 その該当条文は、政府が刑務所等の施設に収容された者の宗教活動に制限を課すことを原則禁止し、例外的に、制限を課すことが政府の必要な利益を推進するためであり、かつ、そのための最小限の制限手段であることを、政府が立証した場合には、その制限は許容されると規定する。

 本件において、州が主張する利益は、執行室の安全確保、執行妨害の防止、執行室の厳粛さの維持等であったが、連邦最高裁は、州は、Ramirezが求めた宗教行為を完全に禁止することが、州の利益を達成するための最小限の制限手段であることを、立証できていないとした。

 連邦最高裁は、ケースバイケースの判断をすべきであるとしたもので、本件においては、牧師が、彼の身体に手を置き、声に出して祈ることは、州の主張する各利益を大きく損なうことはないと判断したものと言えよう。

5 連邦最高裁が示した趣旨に従って、2022年10月5日、Ramirezに対する死刑が執行された。

 もっとも、それまでには、現在の担当検察官が、死刑は反道義的であると主張して、彼の死刑の執行に反対するという、思わぬ展開があったようである。裁判所がこれを認めることはなかったが。

 AP通信の記者は、次のように報告している。

 執行室において、牧師は、右手を彼の胸にしばらく置いて、短い祈りを捧げた。

 「神よ、慈しみをもってこの者を見守って下さい。この者に平安をお与え下さい。また、我らすべてにも平安をお与え下さい」と。

 Ramirezは、「アーメン」と答えた。

 この祈りが終わると、彼は、窓越しに見守っていた被害者の遺族5人に向けて、「私は、後悔し、反省しています。このようなこと(死刑執行)は恐ろしいことですが、これが皆さんの慰めになることを望みます。もし、そうなら、私はうれしいです。これで、皆さんがすべてを終わりにできることを望みます」と語り掛けた。

 その上で、彼は、今度は、自分の妻と息子、友人達に対する愛を表明し、最後に、「私が、良い戦いをしたことを知ってほしい(法廷闘争を頑張ったことを指すのであろうか。聖書中の表現になぞらえたものかもしれない)。私は、もう行きます」と締め括り、1分もしないうちに動かなくなった。

 執行後、被害者の息子は、記者に対し、Ramirezに対する処罰が終わるまでに長くかかったと述べ、「彼が謝罪したからといって、我々の父は帰ってこない。彼は、自分が言いたかったことを言えるが、それが本当なのか誰も分からない。父は、ついに正義を得たと思うが、私は、それほどうれしくない」と語った。

6 以上、アメリカにおける死刑執行室内での聖職者の宗教行為の許容性に関する連邦最高裁の判例を紹介し、さらに、許容された宗教行為が、実際、どのように実施されたかを紹介した。

 ところで、本件では、聖職者の声に出す祈りの後、死刑囚が、ガラス窓越しに被害者遺族らに謝罪するという、あるいは最高裁の判事らも予想しなかったような事態が起きた(以前からこのような謝罪がなされていたのかについては、筆者は、確かな知識を有しないが)。

 聖職者の最期の祈りが、死刑囚からの遺族に対する謝罪的発言を、自然に導いたようにも思われる。他方、遺族らがこれに対して、複雑な感情を抱いたことも、よく理解できるであろう。

以上

本コラム中の意見や推測にわたる部分は、執筆者の個人的見解であり、ひかり総合法律事務所を代表しての見解ではありません。
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