弁護士コラムバックナンバー

罪を悔い改めること(その一)

中川 武隆

1 人は罪を犯した者に反省を求める。罪を悔いて関係者に謝罪して欲しいのである。あるいは、なぜ、そのようなことをしたのかを知りたいという希望が述べられることもある。特に、人を殺めた場合、そうではないか。先ころ判決が出た相模原市障害者施設の多数殺人事件の犯人は、法廷でも、罪を悔いるどころか、自己の行為が正当であることを主張した。謝罪や悔悛の気持ちが聞かれなかったため、世間には、戸惑いというか落ち着きのなさが残ったように思われる。

2 小泉八雲が、明治26年に熊本駅頭で目撃した(と思われる)ことを小品にまとめている(「停車場で」小泉八雲、平井呈一訳、『悪いやつの物語<ちくま文学の森8>(1988年)による)。捕縛された後、巡査を刺し殺して逃亡した強盗犯が、福岡から熊本に護送されてきた。改札口の外に多くの見物人が集まった。付き添いの警部から名前を呼ばれて前に進み出た巡査の未亡人は、背中に子供を負ぶっていた。警部が、罪人の顔をよく見るようにしみじみと語りかけたことにより、子どもは、泣きながらも罪人の顔をにらみつけた。すると、罪人は、地面にへたへたとくず折れて、「堪忍してくんなせえ。・・・なにも怨みつらみがあってやったんじゃねんでござんす。・・・あっしゃァ坊ちゃんに申訳のねえ、大それたことをしちめえました。ですが、こうやっていま、うぬの犯した罪のかどでこれから死にに行くところでござんす。・・・だから、坊ちゃん、・・・どうか可哀相な野郎だとおぼしめしなすって、あっしのこたァ、勘弁してやっておくんなせえまし。お願えでござんす。・・・」と「いかにも見物人の胸を震わせるような、悔悛の情きわまった声で」叫んだ。そして、罪人を引っ立てて行く警部を通すために左右に道を分けた「群衆ぜんたいが、きゅうにしくしくすすり泣きをはじめだした」ところを八雲は目撃する。「そこには、死の直前に、ただひとすじに許しを願うという捨て身の悔悟があった。」とした上、「どんなことにもすぐホロリとして、・・・何ごともさらりと水に流してしまい、・・・肚のなかには一片の憤りもなく、ただ罪に対する大きな嘆きだけを持っている」大衆がいたと観察する。これを日本人の国民性と把握している。

3 八雲は、そのほかにも、犯罪者であっても、子どもに対して慈悲の心を示す点も指摘している。しかし、ここで取り上げたいのは、許しを願う真摯な悔悟が示されれば、大衆は、それを受け入れ、罪人に対する憤りが失われていくという点である。このような明治20年代に観察された日本人の感性は、脈々と我々の気持ちの底に流れているのかもしれない。先の相模原市障害者施設事件についてのマスコミの報道姿勢を見ても、犯人の真摯な謝罪、悔悟を求めたいという大衆の欲求が底流にあったように思う。それが満たされなかった結果、世の中には、犯人の反省を聞くことなく、事件が終わってしまうことに対しての収まりの悪さのようなものが感じられた、と言うのはうがち過ぎであろうか。

4 しかし、ここで、次のような疑問が生じる。八雲が叙述する事件は、逃走のために「無我夢中で」やってしまった偶発的な殺人事件であるが、確信的殺人事件でたやすく反省することがあるのだろうか。確信的な犯人が、少なくとも短い期間では反省などしない例はよく見られる。政治的な主張を伴う場合は特にそうであろう。そうでなくても、男女間の愛憎の果てに至る殺人事件でも、法廷で被告人に接すると、むしろ、ついに怨みを晴らしたという満足感に浸っているのではないかと感じられる例すらあった。そのような場合には、裁判手続き終結までの比較的短い間に、安易に、無理に、反省を求めても無意味であるし、適当でないこともあろう。裁判確定後長い期間をかけて、自己のなした行為についての見直し、気付きがなされることを期待するしかないと言えよう。

5 次に、法律的な問題点としては、被告人が罪を悔悛した場合、それが裁判上どのような効果を持つのか、つまり、悔悛したことが量刑上考慮されるのか、というテーマがある。この点は、次の機会に述べてみたい。

以上

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