2018年11月

「天職」を考える


渡邉 清



 今年4月から、小林弘卓弁護士のチームでお世話になっております弁護士の渡邉清と申します。どうかよろしくお願い致します。

 私は、平成28年まで28年間検事をしていましたが、後輩の若手検事らとの酒席などで話していたことを、この度のコラムで書かせていただきたいと思います。以下の内容は、私の拙い知識に基づくものなので、間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。

 我々日本人が「天職」という言葉を使う場合、自分に最も合った職業、最もやりがいのある職業、最も成功できる職業等々、肯定的意味で使います。だから,青い鳥のように「天職」を探すことに一所懸命になり少しでも違うと感じると転職を繰り返すことになってはいないでしょうか。  

 しかし、「天職」という言葉は、「天」と付くことからも分かるように、元々はキリスト教に由来し、プロテスタントの信仰から来た言葉で、英語では「Calling」と言います。その意味は、神が人間に与えた職業といったもので、特に肯定的な意味はありません。キリスト教における神は、全知全能であり、人間を超越する存在ですから、人間は、神の意志を推し量ることはできても、それを知ることはできませんし、神は、いちいちちっぽけな人間の都合など顧みません,神しか知り得ない壮大な思いをもってその職を人間に与えるのです。そのため、神が人間に与えた職業は、必ずしも個々の人間に合っているとは限らないどころか、個々の人間にとって全く合わない職業を与えられることもあるらしいのです。ですから3Kの職業であってもプロテスタントの人たちにとっては神が与えた職業「天職」ということになります。

 ところで、3Kのような職業に就いた場合、多くの人は、「天職」ならぬ「転職」を考えるかもしれません。しかし、プロテスタントの人たちは、神から与えられた職業である以上、それに不満を言うことなどはとんでもないことであり、その職業に邁進し、働きずくめの生活を送るのです。働きずくめですから、遊興に耽ることはなく、金の無駄遣いもしません。キリスト教徒の最大の願いは、世界の終末、最後の審判において、神に救われて天国に行くことですが、プロテスタントの人たちは、神から与えられた「天職」に邁進することにより、神に救われる、あるいは救われるとの確信がもてると考えるのです。そして、「天職」に邁進することは、同時に金の無駄遣いもしないわけですから、自然に富が蓄えられます。こうして得た富は、自ら手にしてかまわないとされています。宗教改革とプロテスタントの発祥の地であるドイツの偉大な社会学者マックス・ヴェーバーは、このようなプロテスタントの信仰に伴う勤勉と富の蓄積が近代資本主義を生み出す大きな原動力になったと分析しています。

 さて、自らの職業について、愚痴や不満を言わず、それに邁進し、勤勉、質素な生活で満足するというプロテスタントの精神は、今の世の中では流行らないなどとおっしゃる若者が多いのかもしれませんが、見習うべきところもあるのではないでしょうか。「天職」に就いたと思っている若い弁護士のみなさん、そして弁護士に限らず大きな希望をもって仕事に就かれているみなさん、「こんなはずじゃなかった。」などと愚痴や不満をこぼしてばかりではありませんか。今、愚痴はなくとも将来あるかもしれません。そんなときに備え、お話ししたプロテスタントの精神を頭の片隅に置いておき、仕事で挫折感を感じたときなどに思い起こしてみてください。私は、どうしても仕事を続けられないと思ったときには転職もありだとは思います。あまりに嫌な仕事を無理して続けていれば、メンタルの病にかかるおそれもあります。そうなる前の逃走は大事だと思われます。しかし、そこまでいかなければ、我慢して仕事を続けてみることも重要であり、続けていれば、いずれ困難は乗り越えられ、その先にいいこともたくさんあるかもしれません。

<参考文献>
小室直樹著「痛快!憲法学」集英社インターナショナル
マックス・ヴェーバー著大塚久雄訳「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫


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