2017年2月

留学・研修後の早期退職と費用の返還

楠 慶



1 問題の所在

 会社が従業員の留学や研修の費用を負担したにもかかわらず、その後間もなく当該従業員が退職してしまった場合、会社が従業員に費用の返還を請求し、これに対して、従業員側が返還義務を争って紛争となることがあります。

 少し古い資料ですが、厚生労働者の「今後の労働契約法制の在り方に関する研究会」の平成17年9月15日付の報告書には、海外留学制度を設けている企業のうち、早期退職者に費用の返還を求めている企業の割合は40.9%であり、そのうち88.9%が留学後5年以内に退職した労働者を対象に返還を求めているとのことです。

 会社が早期退職者に費用の返還を求める場合、これが、労働基準法16条で禁止された違約金の定めに該当するのではないか、との観点で問題が生じます。

 なお、労働基準法16条は、「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」と規定していますが、当該規定は、戦前、労働者が転職や帰郷した場合には一定額の違約金を支払う旨の約定を締結させて労働者を足止めするといった拘束的労働慣行が存在していたことをふまえて置かれたものであるといわれています。


2 法形式の観点(免除特約付の金銭消費貸借契約の形式となっているか?)

 この点、会社が、早期退職者に対して、約束違反の退職であるとして、違約金という形式で、費用相当額の支払いを求めることは、正に一定期間労働者を会社に在籍させる旨を約定し約束違反の場合の違約金の支払義務を定めたことになり、労働基準法16条に抵触するものと考えられます。

 他方、違約金という形ではなく、会社が、自ら希望する従業員に対して、留学や研修の費用相当額を貸し付けて一定期間の在籍後にその返還義務を免除する(一定期間内の退職の場合には貸付金の返還義務が生じる。)という形式をとる場合、当該契約は、労働契約とは別個の免除特約付の金銭消費貸借契約であり、一定期間内の退職の場合の返還義務の内容や方法が合理的なものである限り、原則としては、労働基準法16条に違反するものではないと考えられます。

 例えば、長谷工コーポレーション事件(東京地判平成9年5月26日労判717号14頁)では、社員留学制度で留学するに際して締結された、帰国後一定期間を経ずに会社を退職する場合に会社が支払った留学費用を返還する旨の契約は、一定期間当該会社に勤務した場合には返還を免除する旨の特約付の金銭消費貸借契約であって、労働基準法16条に違反しないとして、会社からの留学費用の返還請求が認められました。


3 実質的な観点(留学・研修が、従業員の自発的な意思に基づくもので、業務性がないといえるか?)

 もっとも、免除特約付の金銭消費貸借契約の形式を採用すれば、常に、労働基準法16条違反の問題が生じないという訳でもありません。

 具体的には、留学や研修の内容・実質がいかなるものかが重要です。

 すなわち、留学や研修といっても、会社で従業員が業務に従事するために必須のもので、会社が業務命令により従業員に行わせるべきものについては、その費用を会社が負担するのが当然です。そのため、かかる費用について、免除特約付の金銭消費貸借契約の形式を取ったからといって、一定期間内の退職の場合に、会社が従業員に返還を求めることは、労働基準法16条に違反するものと考えられます。

 例えば、富士重工業事件(東京地判平成10年3月17日労判734号15頁)では、海外研修の実態が社員教育の一態様であり、研修中に会社の業務にも従事していたとして、その費用は本来会社が負担すべきものとされ、研修終了後5年以内に退職したときに派遣費用を返済する旨の合意は、違約金の定めにあたり無効であるとされました。

 また、新日本証券事件(東京地判平成10年9月25日労判746号7頁)では、海外の大学のビジネススクールへの留学について、応募は労働者の自発的な意思にゆだねているものの、いったん留学が決定されれば、海外に留学派遣を命じ、専攻学科も会社の業務に関連のある学科を専攻するよう定め、留学期間中の待遇についても勤務している場合に準じて定めているのであるから、会社は、従業員に対し、業務命令として海外に留学派遣を命じるものであって、留学終了後5年以内に退職したときは留学に要した費用を全額返還させる旨の留学規定は、違約金の定めにあたり無効であるとされました。

 これに対し、明治生命保険事件(東京地判平成16年1月26日労判872号46頁)は、業務遂行に必要な費用は、本来的に会社が負担すべきものであって、一定期間内に労働者が退職した場合にこれを労働者に負担させる旨の合意は、それが消費貸借の合意であったとしても、実質的に違約金ないし損害賠償額の予定と認められるから、会社が費用を負担した海外留学が業務性を有し会社がその費用を負担すべき場合には、留学費用についての消費貸借合意は、労働基準法16条等に違反するものとして無効となるとしつつ、本件留学制度に応募するか否かは、労働者の自由意思に委ねられており、留学が決まれば業務命令として留学を命じられるが、選抜された段階で本人が辞退すれば本人の意思に反して派遣されることはないこと、派遣先、留学先は、一定範囲の大学に制限されるが、その中から労働者が自由に選択でき、研究テーマ、研修テーマ、留学先での科目選択は、労働者の自由であること、留学中、毎月簡単な報告書を提出することが義務付けられているが、それ以外に会社の業務に直接関連のある課題や報告を課せられることはなかった等として、当該労働者の留学は業務性を有しないとして、留学費用の返還請求を認めました(野村證券事件(東京地判平成14年4月16日労判827号40頁も同趣旨です。)。


4 在籍を求められる期間の観点(5年間以内とされているか?)

 上記1のとおり、留学費用については、殆どの企業が、留学後5年以内の退職の場合に返還を求める旨の制度としているのが実態のようです。なお、ご紹介した裁判例のうち、富士重工事件、新日本証券事件、明治生命保険事件及び野村證券事件では、いずれも期間が5年間と定められていました。そして、民法626条が、期間の定めのある雇用契約について、5年経過後は、当事者はいつでも解除できる旨規定していることとの均衡を考慮すると、5年間という期間は、一定の合理性が認められる期間であると考えられます。

 他方、労働基準法14条が、契約期間の上限を原則3年間としていることを考慮し、在籍を求める期間を3年間とすることも考えられます。


5 検討

 以上みてきたところによれば、早期退職者に対して、留学・研修費用の返還を求めることが出来るか否かについては、①免除特約付の金銭消費貸借契約の形式がとられているか、②留学・研修が労働者の自発的な意思に基づくもので、業務性を有しないか、③在籍を求められる期間が5年間以内とされているか、といった点によるものと思われます。

 しかし、このうち、②留学・研修が従業員の自発的な意思に基づくか否かや業務性がないといえるか否かについては、実際のところ、相当微妙な事案が多いと考えられます。

 会社が、従業員の留学や研修に金銭を支出するのは、直接的か間接的かはともかく、多かれ少なかれ会社の事業に有用であるからに他なりません。その意味で、この場面で、会社の業務に全く無関係な留学や研修というのは、基本的には想定できないはずです。

 他方、留学や研修は、その内容にもよりますが、社内の誰もが行けるものではなく、社内で応募した者の中から選抜された者だけが行けるもので、最終的に会社の業務命令で留学・研修に行くとはいえ、従業員の自由意思がスタートになっていることが多いと思われます。

 その意味で、私見としては、(1)の免除特約付の金銭消費貸借契約の形式をとることは当然としても、(2)の、留学・研修が自発的な意思に基づくものか否かや業務性がないといえるか否かが微妙な事案については、(3)の在籍を求められる期間の長短(例えば、5年間ではなく3年間程度とする等)の他、返還を求める費用の範囲(例えば、留学の場合、生活費等の滞在費の返還は求めずに、学費のみの返還に留めることとする等)、在籍した期間に応じた返還額の設定の有無(例えば、留学終了後1年以内の退職では全額の返還としつつ、在籍期間に応じて、徐々に返還額を減額する約定とする等)等の、免除特約付の金銭消費貸借契約の具体的内容との相関関係で、労働基準法16条に違反するか否かが判断されてもよいのではないか、と考えているところです。

 

以上


                

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