弁護士コラムバックナンバー

夫婦別姓

中川 武隆

1 民法750条が婚姻関係に与える障害

 婚姻届を提出する場合、夫の姓を名乗るのか、妻の姓を名乗るのかを決めなければならない。統計上、96%の夫婦が、夫の姓を選択している。自分の姓を変更した妻の全員が、それに満足しているのだろうか。女性が男性同様、外に出て働くことが当たり前の今、姓の変更に、不便を感じる人も多い。職場では、婚姻後も、婚姻前の姓をそのまま使用している妻は、相当の割合に上ると推察される。しかし、この通称としての婚姻前の姓の使用が、許されない場面がある。例えば、婚姻前の姓による通称を使用している国務大臣であっても、戸籍上の姓名義による公文書が作成されている。職場によっては、婚姻後、戸籍上の姓の使用を強制しているところすらある。それなら、法律上の正式な姓として、婚姻前の姓を婚姻後も使用したいと希望するのは、当然の成り行きと言える。選択的夫婦別姓制度(別姓を希望する夫婦については、その希望をかなえるものであり、これまでどおり同姓を希望する夫婦に対しては、変更はない。)の導入が待たれるところである。

女性差別撤廃条約の規定においては、婚姻により、女性が婚姻前の姓の変更を強制されることを女性差別の一つと捉え、そのような立法を改廃するように、日本に対して繰り返し勧告しているが、我が国は、これに応じていない。

政府の調査によっても、法律によって、同一姓を強制している国は、日本以外に承知していないとされている。欧米の諸国でも、かつては、同一姓を強制している国が多かったが、今や、これは、自由化され、別姓、結合姓等が許容されるのが大勢である。

変更を強制される立場の女性にとっては、単なる社会生活上の不便さだけではなく、アイデンティティーの喪失を上げる人が多い。憲法24条2項が定める「個人の尊厳」という点から、同一姓の強制には、問題があると言われるゆえんである。

民法750条の規定は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」とある。戦後、民法改正の際、最初は、「夫婦は、夫の氏を称する。」という案であったが、さすがに、これは、両性の平等に反するとして、現行法のような規定となった。制定に携わった人たちは、そのように規定しても、どうせ夫の氏を称するから同じことという意識であったらしい。建前では、夫と妻の間の自由な協議に委ねられているとされるが、現在でも、「夫の氏を称する」という規定が存在するのと同じことである。仮に、自由な協議をしたとして、各自が、自己の姓を称すると主張した場合、婚姻届は出せず、結局、法律的な婚姻は不可能となる。協議が不調に終わった場合の対処規定がない。その意味では、民法750条は欠陥がある規定とも言える。というより、婚姻の障害もないのに、法的な婚姻を希望する夫婦に対し、それを拒絶する、本末転倒の効果をもたらしている。

2 夫婦別姓訴訟最高裁判決

平成8年に、法制審議会が、選択的夫婦別姓を規定する民法改正案要綱を決定したのであるが、法制化されないまま、20年が経過している。民法750条を、選択的夫婦別姓を許容する制度に改正しないことは、国会が長期間にわたり立法を怠けているものであるとして、複数の男女が、国家賠償訴訟を提起した。この訴訟に対して、昨年12月16日、最終審である最高裁が判決を言い渡したが、原告らの期待を全く裏切るものであった。民法750条の規定は、憲法13条、14条1項、24条に違反しないと述べている。ここでは、最高裁大法廷判決の憲法論については、直接立ち入らず、民法750条の合理性を指摘している箇所を、以下に紹介し、その問題点を検討したい。

「氏に、・・・夫婦及びその間の未婚の子や養親子が同一の氏を称するとすることにより、社会の構成要素である家族の呼称としての意義がある・・・」「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる。」「氏は、家族の呼称としての意義があるところ、現行の民法の下においても、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ、その呼称を一つに定めることには合理性が認められる。」「夫婦が同一の氏を称することは、上記の家族という一つの集団を構成する一員であることを、対外的に公示し、識別する機能を有している。」「家族を構成する個人が、同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できるところである。」

上記、理由付けは、「家族という一つの集団」の強調が特徴である。夫婦同一姓強制の合理性を理由づけるために、そうしたのであろうが、そこに説得力はあるだろうか。

現行親族法を見てみると、そこでは、「家族」という用語は使われておらず、当然、「家族」の定義規定もない。ちなみに、明治民法では、「戸主の親族にしてその家に在る者及びその配偶者はこれを家族とす。」と「家族」が定義されていたのである。憲法24条2項、世界人権宣言16条には、「家族」という用語が使われている。詳しくは立ち入らないが、集団性を強調する意味合いでは使われておらず、社会、国家から保護されるべき対象として捉えられている。親族法の分野では、「婚姻」と「親子」が基本的な関係であり、これを規律する規定が定められているが、最高裁は、そこに、あえて、「家族という一つの集団」という概念を持ち出したのである。婚姻関係であっても、親子関係であっても、そこで重要なのは、個人の尊重、個人の尊厳であり(憲法13条、24条2項)、そこに、人間的従属をもたらす契機があってはならないと思う。法は、無用な従属関係を醸成することのないよう配慮し、夫婦間、親子間であれ、個々人が、その身分関係の中で自由に成長できるよう期待すべきである。婚姻の際に、姓の面で、従属的な立場に置かれたと感じる妻がいるならば、そのような制度は適当ではない。もともと、現行制度には、結婚の際は、当然、夫の姓になるのだ、逆に言えば、妻は、婚姻前の姓を捨てるのだという、男性優位の思想が基本にある。夫婦同一姓の強制は、個人の尊重の観点から維持することができない。「家族という一つの集団」という抽象的な概念を持ち出して、個人の尊重に優位させることは、時代の要請に答えていないというほかないであろう。

夫婦別姓を希望する夫婦に対してはそれを容認することが、ひいては、一般に、健全な夫婦関係、親子関係の醸成に、積極的な役割を果たすことになるであろうことを、むしろ、期待したい。

本コラム中の意見や推測にわたる部分は、執筆者の個人的見解であり、ひかり総合法律事務所を代表しての見解ではありません。
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